〈寄稿〉スキー事始め

クラブの大先輩、田邉 裕 様からご寄稿いただきました。ありがとうございます🎿(掲載が大変遅くなり申し訳ございません お詫びいたします🙇‍♀️)

スキーに出会ったのは、1956年の冬、高校の同級生に誘われて湯沢に出かけたのが始まりだが、1958年に猪谷六合雄の「スキーはパラレルから」を読んで、彼の新指導法ならすぐ上達し、100歳になっても楽しめるというので、早速「教えてくれ」と手紙を書いた。

母が野沢温泉でアールベルクのシュナイダーに教えられたと伝えると、当時自分は千島にいたが、興味があるなら指導法のモルモットとして受け入れようと招待された。志賀高原、涸沢、八甲田などで指導料なしで1週間みっちり合宿を楽しんだ。時には日本スキー界の初期の指導者であった大熊勝朗や三浦雄一郎の父、敬三にも紹介されて志賀高原で指導を受けた。

翌年、1959年にどの程度上達したかバッジテストを受けろと言われ、猪谷千春の2メートル25センチのスキーを借りて天理大学の西山実機のテストを受けた。当時は10種目のテストで、2級を頂いた。現在と異なりナンバー入りのバッジで、猪谷先生は自分の指導法なら簡単に上達するのだと喜んでくれた。オーストリアスキーの全盛期で、シュテムやボーゲンから入っていた時代にパラレルから始める指導法に納得した。

その年、大学ののんびり生活を終わり、長期の猪谷スクールに通えなくなったところで、横浜スキー同好会が相模鉄道と組んで設立することを新聞で見た。初代会長は川又秀雄さんで、後に教職員スキー同好会やユーベルを立ち上げた先輩も参加して賑やかだった。YSDはその後も多くのクラブを産んで行った。

私自身は早速、初滑り、正月、小正月、2月、春休みと立て続けにスキーに参加した。ただクラブの運営にも関わったものの、オーストリアスキーから入るSAJの指導方針に馴染めず、猪谷方式で通してしまった。

最後は海外留学やら海外赴任やらで、次第にYSDから離れることになった。ただ羽田空港で当時の布施会長夫妻や古参の会員が周囲の人たちを驚かす「シーハイル」の大声に送られ、赤絨毯を踏んで行った渡欧は今でも忘れられない。まだシベリアの空は通過できず、パリに行くには北極回りで、コペンハーゲン乗り換えだった。フランスアルプスでもバッジテストを受けたが、競技スキー向けのタイムテストで、一般スキーの概念のない土地では歯が立たなかった。

1965年には旗門員に公認され、大きなユニホームヤッケを頂いたり、三人の息子たちもジュニアーのはしりとなって教えて頂いたり、YSDにはお世話になったが、股関節をチタンに置換するなど、体が言うことを聞かなくなって、スキーはその後、できなくなった。猪谷六合雄の100歳記念スキーで、涸沢に出かけたのが最後で、実際には上高地からヘリコプターで行ったのだが、体が言うことを聞かず穂高の山並みを楽しむだけになった。